あたしたちが、何かを決める時、ほとんどの人は情報収集をするだろう。
例えば、テレビを買う時…性能や価格や口コミなどの情報収集をして、どの商品にするか決めるでしょう。
同時に、自分のライフスタイルや、予算や、テレビに求めている機能など、自分とテレビの向き合い方を 振り返っていくと思うのです。
そうして どんなテレビを買うことにするのか 決めていくと思うのです。
でも、お店にテレビを買いに行った時、店員さんが ある種の信念を持っていて、あたしが調べた情報と全く異なることを力説し始めたらどうでしょう。
A社のテレビを買うつもりだったけど、B社のを勧められた というように。
途端に、テレビについて調べた情報が 間違ったものだったのか と考えるかもしれない。
自分が決めたことに、自信が持てなくなって、店員さんが勧めたテレビを買うかもしれない。
若しくは、何を言われたとしても、自分が決めたテレビを買うかもしれない。
いずれにしても…
結果として、あたしのところにテレビは届き、快適に地デジが見られるわけですが。
あたしの調べた情報や 店員が力説した情報が『正しかったのかどうか』 ということは、わからないままなのです。
「A社の方がエコである」
「B社は業界一 省エネ」
わからなかったから、調べようと思っても、それを正しいという情報もあるし、間違っているという情報もある。
相反する情報が、同時に存在する。
判断をしようにも、わからないから 決められない。
先日、MSN産経ニュースに、社会学者 加藤秀俊氏の記事が載っていた。
そこでは、「はたして、われわれがそのすべてをちゃんと理解してものをいっているのか、といえば、答えは否である。じつのところ、なにもわかってはいないのである。わかっていないどころか、ますますわからなくなっているのである。」 とある。
「健康診断で胃のエックス線検査をすれば4ミリシーベルト、CT検査になると7ミリシーベルトだから、やたらに放射線検査をするな、という論者がいる半面、いや、そのくらいならだいじょうぶ、それよりも病気の早期発見のほうが重要だ、という医師もいる。」
「そんなめんどうで不可解なことがくりかえされて、それでどうなるのかといえば「直ちに影響はない」という。だいじょうぶだ、という。(中略)将来どうなるのか、と問いただすと前例のないことだからわからないという。それなら、さいしょから説をなすことじたいが無意味である。」
正しいことを知らないと、決められない。
しかしそれは、『正しい情報を得ることができる』 ことが前提となる。
最初から、正しいかどうかがわからない情報しか得ることができないのなら…?
または、先述の店員のように、「B社が絶対に優れている」 という観点から取り入れた情報は、最初から歪んでいやしないか。
原発も同じ。
原発推進派は、安全だ 大丈夫だ と情報を流すだろう。
または、原発がないと、電気が足りなくなる 生活できなくなると言うだろう。
原発の恩恵を受けているものは、危ないと知っていても「仕方ない」 というだろう。
もはや、そんな情報に意味はあるのだろうか。
実際に、原発が壊れ、放射能に怯えて暮らす人が、死に物狂いで原発内で働いている人が 存在する。
それだけで、十分なのではないか。
核のゴミの捨て場所も決まっていないのに、安全だ 大丈夫だ というのは、詭弁にすぎない。
そして、この事故が起こるまで、無関心であったあたし自身も 大きな責任を抱えていると気付いた。
日本が、脱原発の 核に頼らない政治の リーダーになるべき だと思う。
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